あら瓦版 (大月たけひろ)

国民民主党 荒川区議会の活動について

【視察:松山市①】正岡子規記念館 なんと「漱石」は子規のペンネームだった!?

お元気ですか?荒川区議の大月です。

正岡子規記念館

正岡子規を知ったのは、「坂の上の雲」でした。ちょっと、盛っているんじゃないのと言われそうですが、確か大阪豊中市小学校5年生だった時にムラ公という友人が「坂の上の雲」を読破したと聞きました。それまで、父親に買ってもらっていたのは、マンガでした。そろそろマンガだけで無く、歴史小説なるものをよんでみようと、友人の刺激を受けて母親に購入してもらいました。しかし、難易度が一気にあがりました(笑)

ムラ公は大阪豊中市の官舎で、しかも官舎の団地の敷地内にある一軒家に住んでいました。考えてみたら、「ムラ公の親父さんは官僚のエリートだったんだ」と、社会にでてから思いました。小学生の頃は、そんなこと気にもせずにたまに遊びに行ってました。

「坂の上の雲」に話を戻しますが、それまでは教科書以外は、マンガばかり読んでいた身からすると、日露戦争で海軍と陸軍の中心人物である秋山兄弟が主人公と聞いていたので、きっと軍の難局を解決することで出世していく物語が中心と勝手に考えていました。なぜ、地味な文学者が出てくるのか、初めは違和感を感じながら読んでいました。

冷静に考えてみると、松山市は荒川区の2倍の人口はありますが、政治や経済の中心である東京から遠く離れた、四国で夏目漱石・正岡子規・秋山兄弟という明治時代の引っ張る人材を輩出した事実は凄いことだな思いました。

表題に戻りますが、正岡子規はペンネームが50を超えると言われています。その中に「漱石」があったそうです。日本の歴史で考えてみると、「漱石」は「夏目漱石」でないと収まりがつきません。でも、先に正岡子規が思いつき、夏目漱石がパクったってことになりますので、今なら「炎上」でしょうか。

正岡子規記念館では、展示内容は写真禁止でしたが、印象に残ったのは、正岡子規は24歳で結核となり母親や妹さんの相当世話になったそうです。しかも、妹さんは二度も離婚したそうです。

たまたま、私の撮った記念館の写真に掲げられていた俳句が「妹の朝顔赤を咲きにけり」でした。おそらく、いつも世話になっていた妹を想った作品なんだろうと思いました。